当時濰県収容所にいた経験を思い出すと、メアリーと王正漢が激しく手を握った。マリー氏が「最後の英雄」を見舞うために中国に行くことを知り、かつて潍県収容所に拘禁された十数名の方も王成漢氏に感謝の手紙を書き、マリー氏を頼んで王さんに手渡した。
メアリーと王正漢が会った時、二人が激しく抱き合った。(撮影 亓翔)
当時濰県収容所にいた経験を思い出すと、メアリーと王正漢が激しく手を握った。(撮影 亓翔)
メアリーは自分が持ってきた感謝状を王正漢に紹介した。(撮影 亓翔)
当時濰県収容所から救われた人々がメアリーに依頼して、王正漢に感謝状を送った。(撮影 亓翔)
アメリカのニュージャージー州から来たメアリー·テイラー·プレヴァイトが大衆網記者からの取材を受けた。(撮影 亓翔)
アメリカのザ·フィラデルフィア·インクワイアラーに載っている王正漢とメアリーの記事、そのタイトルは『感謝の旅』である。(撮影 亓翔)
王正漢がメアリーと彼女の家族と一緒に記念写真を撮った。(撮影 亓翔)
大衆ネット特派員 樊思思 亓翔「この日のやってくることは一度も思わなかった!私はこの日が来るまで生き残ることも一度も思わなかった!」地球の半分の距離を越え、マリープリベイト氏(Mary Taylor Previte、アメリカ人、83歳)はやっと71年前に自分を救い出した英雄である王成漢氏(91歳)と中国貴陽市で面会できた。1945年、王成漢ら七人からなる「ダック·アクション·チーム(Duck Action Team)」はマリーを含めた1500名あまりの欧米人を潍(ウィー)県(シィン)収容所から救い出した。長きにわたってアメリカニュージャージー州議会の議員を務めたマリー氏は前世紀90年代からレスキュー隊員七人を探し続け、メンバーであることが確認すれば感謝の気持ちがもって直に感謝に行く。王成漢氏は見つけた最後の恩人である。今回、王氏と顔をあわせることができ、すべての隊員を探し出して感謝するとの宿願が遂げた。大衆ネットの記者はこの感動の面会場面を記録した。
当時救われた場面についての思い出:
七人の英雄は天から降り、収容所の隅々まで気が狂ったようになった
「おやまあ!こちらは私の英雄だ!」27日午後三時半ごろ、飛行機を降りたばかりのマリー氏は親戚を連れて王氏の住むビルに到着した瞬間、すぐ迎えに来た王成漢氏を発見した。八九十歳の二人は互いに速いスピードで目の前に殺到し、手を繋い、子供のように叫びながら、笑いながら、力強く抱き合った。「私はこの日が来るまで生き残ることが一度も思わなかった。あえて一度も…」と、マリーはつぶやくように何度もこの言葉を繰り返した後、「こちらは王さんだ、彼は私の英雄だ」と大声で記者たちに向かって宣言した。
前世紀40年代の初め、第二次世界大戦中。潍県収容所は山東省潍県(現山東省潍坊(ウィーファン)市)にあった「楽道院(キリスト教関係の学校や病院などの施設)」を中国在住欧米人の拘禁ための収容所に改装、1942年に立てられた日本軍の施設である。327名の子供を含めた欧米人2000人あまり(うち捕虜交換で500人解放された)は中国の各地から集められ、ここに拘禁された。当時、9歳未満のマリー氏の通っていた煙台芝罘学校は日本軍に占領され、教師と生徒200人あまりはまず煙台に9ヶ月間拘束され、転々と潍県収容所に辿り着いた。これからマリー氏、兄、姉、弟及び祖父は、潍県収容所での拘禁生活がはじまた。解放されたのは3年後のことであった。この三年間、マリー氏達は長きに亘った食糧と着物の不足や非常に悪かった環境衛生を耐え忍ばなければならなかった上に、身動きの自由まで失ってしまった。マリー氏は再び両親にあったのも5年後のことだった。
このつらい日々はついに1945年の夏に終わりを迎えた。「1945年8月17日、この日は決して一生忘れないものだ」と、大衆ネットの記者に対してマリー氏はそう言った。その日、マリー氏はおなかが壊したゆえに、ベッドで休んでいた。急に、窓外から飛行機の轟き響く音が聞き、ベッドから降りて窓向けに走り、だんだん低くに飛んでくる飛行機の姿を見た。それに、飛行機にアメリカの国旗のマークがつけられたこともわかるようになった。その瞬間、収容所の隅々まで気が狂ったようになり、人々は脱いだシャツを振り回しながら雪崩れるように外に走った。マリー氏もその中の一人。「想像できないでしょう、あの時、私は壊れたおなかもなんとなく癒したのよ」とマリー氏は笑って言った。まもなく、飛行機からパラシュートで降りた人が収容所外の田畑に現れたそうだ。有頂天になった人々は流れのように日本軍の守った防衛線を突破し、七人の前まで進み、みんな涙を流したり、抱合ったり、ダンスしたり、少々落ち着いた後七人を胴上げして収容所の玄関へ移動した。
話しきれない感謝の気持ち:
命を顧みない恩人に敬服、アメリカから特別な感謝手紙を持ってきた
「みなさんは知っていないでしょう。実はその前に王さんはパラシュートをしたことがなかった。けれど、私たちを救出するために、これを無視し、命を顧みずに降りたのよ。彼は私たちの英雄だね!」王氏の家でマリー氏は王氏の手をしっかりと握り、敬服の気持ちが溢れていった。収容所から出た時、マリー氏はまだ13歳未満で、その事実がわかったのは多年後のことだった。だから、記憶に残されたEddie Wangに対する敬服は一層深めるようになった(当時王氏の使った名前はEddie Wang)。「彼は本当に命をすてたと言っても過言ではない。あの時、数多くの日本兵士が警備しているままで、見ず知らずの私達を救い出すために降りてきたよ」と、マリー氏は高ぶる気持ちを抑えられなかった。
「当時王さんはどういう経緯でアメリカから派遣したレスキュー隊に入ったのですか」、「私のような拘禁された人々を見た瞬間に最初の気持ちはなんでしょうか」、「あの日、飛行機に乗る前に与えられた任務は何でしょうか」、「私達は収容所を離れた後、いつうちに帰ったのですか」。マリー氏は気持ちが落ち着いてからすぐ、当時のあの可愛い幼い子供のように、矢も盾もたまらないほど質問が湧き出した。マリー氏にとって、王さんが経験した救出に
ついてすべてのものを知りたいのだ。
「当時、私は兵士だったよ。1943年に、私は四川大学の物理学部に合格し、大学に入ったが、翌年に軍隊に入って国のために戦うことにした。。。」と、マリー氏の期待の目付きを浴びる中、91歳の王さんはいかに学業をあきらめて国民革命軍に入ったのか、いかに軍隊で電報を習ったのか、いかに国民党外事局の訳者訓練コースに合格したのか、いかに米国の戦略情報局(OSS)に招かれ、アクションチームのメンバーとして通訳を担当したのかについて、ゆっくりと説明した。マリー氏はわき目もふらずに聞き、時々に驚嘆と敬服の表情が表し、感動された時、思わずに再び王氏を抱き締めるようになり、何度も「あなたは英雄だ」と呟いた。
今回の面会のために、マリー氏は特別なプレゼントを持ってきた。すなわち、アメリカニュージャージー州参議院議長であるStephen M. Sweeney及びアメリカ駐中国大使である Max Sieben Baucusからの感謝の手紙である。Stephen氏の手紙で「王さんは米軍七人のアクションチームの通訳を担当し、それに、七人中年齢のもっとも若い人で、あなたの雄雄しい行為に対して最高な尊敬と賛美を払っても足りないことだ。あなたの貢献と承諾及びそのための努力は人間の粘り強い魂の典範だけでなく、潍県収容所に拘禁された人々に自由と希望を与えた燈台である」と、Max大使の手紙で「第二次世界大戦中、米中両国の国民はともに巨大な犠牲を払い、あのつらかった歳月で互いに助け合った。王成漢さんの雄雄しい行為及び他の中国国民の努力を感じ、私たちは深く奮い立たせるようになった」と高く評価した。それに、Max大使は自分の同僚達が王成漢氏とおなじように、米中両国の友誼の絆を作ろうと努力しているから、もしチャンスがあれば、王成漢を大使館のみなさんに紹介したいとも書いた。
マリー氏が「最後の英雄」を見舞うために中国に行くことを知り、かつて潍県収容所に拘禁された十数名の方も王成漢氏に感謝の手紙を書き、マリー氏を頼んで王さんに手渡した。アメリカ代表であるDonald Norcrossは王成漢氏の「無私の行為及び貢献」のため王氏の名前を国会レコードに記録すべきだと提案し、可決された。マリー氏が手紙を王氏に手渡し、王氏は老眼鏡をかけ、マリー氏と一緒にまじめに読み始めた。王氏は震えた指で手紙を撫でながら思わずに小さい声で読み出した。
収容所の日々への追憶:
栄養をとるために卵の殻を食べていた、子供を保護ために「悪いこと」を子供の耳に入らないように努力
「潍県収容所に拘束されていた間に、一番怖かったのは私達のペットである猫が日本軍の犬に噛み殺されたことだ」と、70年以上の歳月が経っても、これを言及したら、マリー氏も依然として悲しい表情。潍県収容所の日本軍はシェパードをつれてパトロールすることがよくあった。マリーが幼い子供なので、怖いと感じるのは当然のことだ。当時、通った学校の学長先生はビクトリアと名付けた猫を飼っていた。マリー氏はこの猫が大好きで、寝た時もよく猫と一緒で、「体はとても柔らかし、とてもおとなしいし、とても可愛い」と高い評価だった。しかし、ある日の夜、マリー氏は横になってまだ寝ないうちに、日本兵士パトロールの足音と犬の吠える声が耳に入ったが、突然、猫の鋭い悲鳴も耳に殺到。間違いなくビクトリアだった。シェパードに襲われ、噛み殺されてしまった。マリー氏は声も出すことができないほどこわくてベッドで丸く縮まっているだけだった。「私のような子供がこの残酷な場面を記憶にのこらないために、教師達は夜のうちに点々とついていた血痕を始末した。翌朝、すべての形跡が消されてしまった」、マリー氏は悲しそうに推測した。この出来事によって長い間収容所には悲しさが漂っていた。
このようなことがよくあるとはいえないが、やはり残酷な生活状況はマリー氏と仲間にとって直面しなけなばならない問題だった。マリー氏の話によると、収容所の食べ物は非常にわるく、特に後期になると食糧の提供が減少し続ける一方で、毎日数枚の硬い食パンしかなかったし、まれにない肉もたいてい腐り爛れたものだった。それどころか、ねずみとか蝿とか隅々までいた。子供は着物も足りなかったから、教師達は頭を捻るほどいろいろ工夫した。たとえば、毛布を長ズボンに仕立てしたお陰で、ようやく無事に寒い冬を乗り越えてしまった。王成漢もパラシュートで降りた後、目に入ったのは「みんながりがりにやせている。数多の人は靴もない」というようなさんたんたる光景だった。拘束された人の中医者がいて、拘禁される中栄養不足が子供の体成長にマイナスな影響が与えかねないとの恐れがあるから、成長にに重要な役割を果たすカルシウムを取るために、集めた卵の殻を火で乾した後、細かしく粉末に磨き、栄養品として子供に食わさせた。もちろん、まずかったのでのみこむのに苦労したと、マリー氏は大衆ネットの記者に対してそう教えてくれた(卵はひそかに収容所外の地元の農民と交換してもらうものだった。この交換は危険な行動で、発見されると欧米人なら罰、地元の農民ならて処刑。)
こんな厳しい生活環境でも、学校の教師達は毎日マリー氏のような子供に従業をやり続けていた。いつまでもあきらめはしないで、いつでも高い標準で自分に厳しく要求しようと教師達にそう教えられた。マリー氏の記憶に、収容所に暴力及び血生臭さなどの怖い場面だらけじゃなかったが、「多分大変なことがおきたかもしれないが、先生達はこのようなことが私達の耳に入られないようにずっと努力し続けていた」。日本兵士に集められて銃で射殺されることをずっと心配していたから、教師達が毎夜に祈祷していた事実をようやく知ったのは解放された多年後のことだった、。当時、子供がちゃんと保護されたと言えるから、死亡に関する心配及び怖さについて、教師達は絶対に口に出すことはしなかった。
十数年の英雄を探す「聖地巡礼の旅」
生きているうちに恩人と面会できることは奇跡、中国は私の母
「これは奇跡だね!」レスキュー隊の最後のメンバーである王成漢氏を探し出した上に面会できることは奇跡だ。大衆ネットの記者に対してマリー氏は満足そうに言った。
前世紀90年代以来、マリー氏は当時の七人のメンバーを探し始めた。友のお陰で相次いで二人のメンバーの未亡人を探し出した後、他のメンバー4人と面会できたが、いくら工夫しても最後の中国人のメンバーに関するメッセジーが取れない。「戦後どこにいったのか、あるいは中国に生活しているかどうか、いきているかどうかさえ一切知らない。ようするに、十数億の中国人の中に、王という苗字の方を探し出すのは本当無理だね。」
幸いに、2015年3月、王成漢の孫さんである王謙さんはアメリカに滞在し、あるウェブサイト でマリー氏の書いた収容所に関する文章を発見し、マリー氏が今でもEddie Wangを探し続けていることがわかった。王さんは読めば読むほど、マリー氏が探している方が自分のお爺さんじゃないかと感じ、マリー氏の宛名に手紙に書いた。
「あの時、マリーさんは私に16個の質問を提出したが、私の答えを聞いた後、やっぱり私は彼女のずっと探している人であることが確認できた。その後、電話で連絡をとり、抑えられないほど感動した」と、王氏はにこにこ笑いながら、去年四五月にマリーと成功に連絡を取れたことをゆっくり紹介した。マリーの提出した問題は全部レスキューに関連もので、経験でなければわかる可能性がない。「もちろん、答えは私は今でも覚えているよ。王さんはすっぱりと答えた。満点の答えだ。彼は私の探している英雄だと確認した。」マリー氏は補完のようにそばで喜んで言った。
「叶えない夢を叶った。これ以上すばらしいものはない。」マリー氏は七人のメンバーを探す経歴を「聖地巡礼の旅」と言い、今はこの旅はやっと成功に終止符を打つことができた。「神様のお陰で、王さんを探し出すことができた。私もいきている。あなたもいきている。私達はやっと面会できた。」この暖かい話を言っているうちに、マリー氏は涙が溢れるようになった。「これは縁だよ」と、王氏も感無量の気持ちになった。「王さんは早くから英雄に相応しい尊敬と光栄を獲得すべきだよ。私はできるだけ多くの人間がこの物語を伝えたいが、このようなことがもっと多ければ、この世界ももっときれいになると信じている。なぜというと、私達は手を合わせて共同で努力しているから。」マリー氏はこのように言った。
いつまでも希望をあきらめはしないこと。もっともつらかった時期でも、拘禁された人々が最後の勝利がうちのものだと強く信じ、前もって勝利のための準備を備えていたことは今までマリー氏の記憶に深く刻み残されている。収容所に数十人からなるオーケストラがあり、マリー氏の思い出によると、毎週の火曜日の夜、オーケストラがひそかに新曲を演奏練習をしていたそうだ。新曲はアメリカ、イギリス、旧ソ連三国の国歌の段落を抜け出したものと中国伝統的メロディーと一緒合わせて出来上がったものだ。それに、日本軍が疑わないように、天国を賞賛したものも入れ、宗教的な曲のように見せかけた。1945年7月17日、レスキュー隊七人が天から降りた時、収容所の人々は狂喜である同時にこの長い間練習してきた曲が演奏し、収容所の諸所に流した。この曲は1500人あまりの拘禁された欧米人の再び自由を取り戻すことを祝うだけでなく、これも同盟国の勝利を祝う曲でもあった。「王さんは私の英雄で、私の友で、永遠、永遠…」。「当時、私達は協力してあの戦争の勝利を獲得したが、今は、私達の国と国の間、国民と国民の間に、依然として昔のように友誼を保っている。この友誼を長く続けていくことを祈る。」
インタビュー中に、「中国へようこそ」と挨拶で言われたとき、マリー氏はすぐに「いいえ、中国に帰ったと言うべきだよ。私は中国河南省で生まれたよ。私は初めてアメリカから再び中国に帰った時、中国の土をキスしたことがある。なぜというと、中国は私の母であるから、私は母をキスするのは当たり前のことだ」と言い直した。
「You are my sunshine my only sunshine.You make me happy when skies are gray…」午後の時間はあっという間に経ったが、二人の老人は手をつなぎ、当時潍県収容所に一緒に歌った「あなたは私の陽光」を歌った。すっきりとした青い空、小さい応接間に降り注いだ日差し、空気に漂っている歌、静かかつ安らかな雰囲気が永久に止まっているようだ。
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责任编辑:毛德勋